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特別寄稿文 「再挑戦」を考える

「再挑戦」とは何だろう?どんな応援ができるのだろうか?

· 特別寄稿

鎌倉フェローシップ特集―特別寄稿文を二つ掲載いたします。

平良薫氏(司法修習生、鎌倉フェローシップ奨学生OB)

鎌倉國年(鎌倉フェローシップ)

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「再挑戦」や「再チャレンジ」

という言葉を耳にする時、私たちは何を考えるでしょうか?

これらの言葉にどのようなイメージを持つでしょうか?

戦争や大地震のあと、地域を再建しようとするとき

あるいは何かの壁につきあたった個人が、立ち直ろうとするとき―

かつての目標やかつての希望があって、

そこにたどりつくため、それをかなえるためには、

一度やったプロセスをもう一度やり直す必要がある

あるいは、一度通った道をもう一度歩かねばならない、

ネバーギブアップなのか、あきらめるべきなのか

自己責任論なのか周囲のサポートがカギとなるのか

そして、社会は「再チャレンジ」のための環境をどう整えるべきでしょうか

公益財団や非営利組織は、どう支援していくべきでしょうか

どれくらいの予算が必要で、どれくらいの投資が適当なのでしょうか

ひとりひとりの自己実現のために見直すべき課題はたくさんあります。

一ついえることは「寄付」という方法は最も目に見える力強い支援だということです。

首里城の”再チャレンジ”

沖縄では2019年10月31日未明に世界遺産にも指定されている首里城の正殿などを火事で焼失しました。失われたことで、首里城が沖縄のシンボルとしてもいかに地域に根付いていたかが改めて確認されました。首里城の再建をめざして、12月までには13億円を超える支援が集まっています。今後は再建をどのような形にしていくのかさまざまな議論が活発になっていくことでしょう。単純にもう一度お城が再建するのを待つばかりではなく、デジタルアーカイブ化し、世界の人がいつでもどこでも首里城に親しめるようにする基金も発足しています。私たちも積極的に支援を推進してまいります。

詳しくは外部サイト: 首里城アーカイブ基金 公益財団法人みらいファンド沖縄

本年度の鎌倉フェローシップは、「ロースクール制度16年目の支援」について真剣に考えました。そして一見、個人の再チャレンジという自己責任論の範疇に入る課題につき、社会が再挑戦しやすい環境をまもり、周囲が物心両面から支援することは、多元的社会、多様性を涵養する社会の実現には不可欠だと考えるようになりました。

そんな折、本年9月、ある鎌倉フェローシップ奨学金のОBから司法試験合格のご報告を頂きました。二度の法科大学院生活を経験し、十数年に渡る修学期間を無事に終えた彼女(仮名:平良薫さん)に「再チャレンジ」の成功の秘訣は?と問うと、その回答は「再チャレンジ」という表現自体をさほど大げさに受け止めず、日々自分の道を歩むことを重視しているかのようで、昨今の流行りの「再チャレンジ」に関する議論に対して大変示唆に富むものでした。

また同時に、平良さんを一年生のときから知る本財団の元代表にも「再チャレンジ」に関する考えを聞きました。元代表である鎌倉國年は、十数年前、平良さんが鎌倉フェローシップの奨学生に選ばれた際、「試験は一度で合格しようとせず、好きな勉強に励んでください」という趣旨の発言をしたのですが、平良さん自身も「”すんなり合格はしないだろうけれど、まぁいいでしょう”という感想を漏らされ、大いに安心するとともに、受験期間を通じて大変勇気づけられました」と、今でも覚えておられたようです。今回はその元代表である鎌倉國年からも、改めて30年以上実業家として企業経営をしてきた観点より、失敗と再チャレンジについての意見をもらいました。

寄付月間にあたり、鎌倉フェローシップの特集として特別寄稿文2つを掲載したいと思います

平良薫氏(司法修習生、鎌倉フェローシップ奨学生OB)

鎌倉國年(鎌倉フェローシップ元代表)

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前言 (鎌倉フェローシップ代表理事:鎌倉淳爾)

平良薫さんは沖縄のロースクールを卒業した後、司法試験に優秀な成績で合格し、現在は司法修習生として法曹としてのさらなるキャリアの階段を上っておられます。今回そんな平良さんにかつて鎌倉フェローシップの奨学生を受けられていたというご縁で、「”再チャレンジ”をどう考えるか」というテーマでご自身の経験からご寄稿いただけました。12月は寄付月間です。本年度鎌倉フェローシップが推進した「再チャレンジ」の支援を一年の終わりに振り返り、翌年以降も活かすという意味においても、平良さんのご経験に基づくご寄稿を感謝して掲載したいと思います。「再チャレンジ」の種類は、個人の人生に関するものももちろん、大地震の被災地への復興支援や、焼失した文化財の再建等もあり、さまざまです。平良さんは「再チャレンジ」という言葉について、法曹の卵らしくその定義から真剣に考えてくださいました。ロースクールの後輩にとっても有意義な観点をシェアしていただいたことに改めて感謝するとともに、今後の鎌倉フェローシップの活動に活かしていきたいと思います。

鎌倉フェローシップ特別寄稿文① 

2019年司法試験合格 元鎌倉フェローシップ奨学生(第3期) 平良薫さん(仮)

私は、20代半ばにロースクールに入学して司法試験の勉強を始め、ロースクールを2度卒業し、30代後半で合格しました。かつてはともかく、新制度下で合格までに10年以上を要し、しかも、ロースクールを2度卒業しており、よく頑張り続けたと感心されることがあります。私も、勉強中、なぜ私はこんなにも長期間、全精力を傾けて勉強を続けているのかと考えたことがありました。そして、やめるとしたら、①興味を失ったとき、②興味はあるが、健康、家庭、経済的事情といったやむを得ない事情により続けられなくなくなったとき、または、③万策尽きたときではないだろうかと考え、私はどれにもあてはまらないと思った覚えがあります。

①については、全く衰えませんでした。成果を感じられないときであっても、合格のための要件は何か、私は何を欠いているかと考え続け、③に至ることはありませんでした。受験資格を一度失ったときは、特に葛藤なく、取りなおせばよいと再入学しました。ロースクールへの再入学後、主語の正確な読み書きからやり直さねばならないことが分かった時は、小学生からやり直すような先行きの遠さに気が遠くなるようでしたが、同時に、これでようやくスタート地点に立てたと安堵しました。②については、健康に留意して生活するものの、たびたび体調を崩し、しかし、ほとんど気になりませんでした。脳は利己的な器官であり、他の器官を犠牲にして自らの快楽を求めるという脳科学者の池谷裕二先生の言葉に深く納得しました。

勉強を続けること自体、そして、その結果得られるものに対する欲求の強さが、合格までの道のりにおいて一般に支障となり得るものを無効にしてしまっていたように思います。本来、理解できず成果も感じられないことを続けることに大変な苦痛を感じるはずですが、私は楽しく、夢中でした。

私は、この文章を、一般論として再チャレンジの姿とはどうあるべきものと考えるかという問いに対して書いています。

内閣官房作成のパンフレットによると、再チャレンジという言葉は、「仮に失敗しても何度でもチャレンジできる・・・」ことを意味しているようです。つまり、「失敗」を前提にした言葉です。「失敗」とは、広辞苑によると、「やってみたが、うまくいかないこと」です。ただ、私が「失敗」という言葉から受ける印象は、単に少しばかりうまくいかないという状態ではなく、取り返しがつかず、もはやなす術がなく、身も心もすくんでしまうという深刻な状態です。一般にはどうなのでしょうか。仮に、わずかでも、「失敗」や「再チャレンジ」という言葉がそのような深刻さを帯びる言葉なのであれば、うまくいかないときに、「失敗」や「再チャレンジ」という言葉を使うのは控えた方がよいと思います。

「失敗」という言葉で表現するしかない状態は、確かにあるでしょう。しかし、多くの場合は、「うまくいかない方法を発見したに過ぎない」(エジソン)のではないでしょうか。うまくいかない方法を発見したに過ぎないのに、「失敗」だととらえてすくんでしまわなくてよいと思うのです。

私は、受験資格の喪失を失敗だとは思いませんでしたし、再入学を再チャレンジだとも思いませんでした。そのように思うまいとしたのではなく、全く念頭に浮かびませんでした。恐らく、客観的には、諦めるか否かの岐路を何度も通過していたと思いますが、私は全くそれに気づかず、その岐路は視野にも入っていませんでした。ただ、未だ実現していない未来に向けて、必要と思えることをしたに過ぎませんでした。

うまくいかない方法を発見したに過ぎないととらえるにあたり、次の2点は誰にも共通して大切ではないかと思います。まず、栄養と睡眠をしっかり採ることです。お腹が空いた状態で、あるいは、眠い状態で、原因を分析し、合理的な判断をすることはできません。そして、自分や他人、社会一般に対する肯定的な感覚をしっかり持てることです。その感覚は、心の中で燃え続ける火のようなものだと思います。鎌倉フェローシップの初代理事長は、私を奨学生として選ばれる一方、すんなり合格はしないだろうけれど、まぁいいでしょうという感想を漏らされました。私は、大いに安心するとともに、受験期間を通じて大変勇気づけられました。

もし、自分や他人、社会一般に対する肯定的な感覚を日常で得ることが難しいのであれば、長く読み継がれている児童文学を読んでみるとよいのではないかと思います。宮崎駿監督は、児童文学を、「やりなおしがきく話」であると述べておられます。私は子供の頃児童文学に接し、なぜどの本も親のいない子供の話なのだろうと思いました。読み手のほとんどは親のいる子供のはずなのに。親がいる子供の場合、絶体絶命のピンチに至り、さあどうするという事態が生じず、冒険が始まらないからだろうかと思いました。最後の受験の年、ふと、その頃の疑問を思い出しました。そして、児童文学は、保護者のいない状況、つまり、どうしたらよいか分からない状況で、人はどうふるまうべきかの具体例を示す本であって、試行錯誤し、状況にも助けられて、何とかなる例を示す本ではないかと思いました。困難に直面した大人にも有益な本ではないでしょうか。

一般論として再チャレンジの姿とはどうあるべきものと考えるのかという問いに対する私の考えをまとめると、失敗ではなく、再チャレンジでもなく、うまくいかない方法を発見したに過ぎないととらえること、そして、食事と睡眠を充実させ、自分と他人と社会一般に対して肯定的な感覚を持ち、うまくいかせるための要件は何か、それはどうすれば満たせるのかを心を澄ませて考え行動することだと思います。人の能力、関心、取り巻かれた状況などは、かなりの差があるので、それをよく踏まえることが大切だと思います。

インクルージョンとは、個々が尊重され、社会的に排除されない状況を指す概念のようです。また、ダイバーシティとは、多様な差異を持つ個人を一つのところに集合させた社会の状態を概念のようです。

これらの実現は、集団の目的、規模、集団を構成する人の力関係、能力の違い、流動性、取り巻かれた状況、プライバシーへの立ち入りについての考え方などを総合考慮し、集団を構成する人がおおむね許容できるという範囲で実現するのではないかと思います。その実現は、構成員皆の許容と、決定権限やより影響力のある者の強い意思にかかっているのではないかと思います。

私は、受験期間、職場の多大な支援を得ました。職場の皆の暖かな理解はもとよりですが、経営者の私の状況への理解と配慮があってこそでした。

以上

鎌倉フェローシップ特別寄稿文②

鎌倉フェローシップ第3期選考委員 前代表 鎌倉國年

再チャレンジをどう考えるべきか

副題:ある合格体験記を読んで

 鎌倉フェローシップに届いたある類例のない合格体験記を、楽しく且つ興味深く拝見した。著者の名前は平良薫さん。日本で2004年に法科大学院創設された頃に私どもが創った奨学金制度の第3期生だという。私は平良さんの合格体験記はきっと平良さんの後に続く人々にも役に立つと考え、自分の経営者・奨学金の支援者としての体験とあわせ、この寄付月間にあわせて「再チャレンジ」をテーマに若干の考察を寄せることとした。

著者の面目躍如たるところは、1回目の法科大学院を終えてから、再び入学するくだりで、悲壮感や敗北感が無い点である。

「成功するためには失敗しなければならない」

とは、科学技術の世界での常識かと思うが、法律の分野でもこのような根本的にポジティブな態度・思考は意外である。著者は再入学時に「主語を明確に」という一つの方法論を悟ったようである。そこから整理整頓ができていったと想像される。

人生において、このような発見があると、それ以後は、得意技になる。何に対しても、いつでもその技が使えるようになる。偉人伝などを注意深く読むと、必ず若いころ何らかの方法論を発見して身につける過程がわかるものである。

 著者は「失敗というべきでない」と主張しているが、技術的には「試行錯誤」といっていい。マトリックスでA1、A2、A3とあらゆる可能性の芽を試す場合は99%以上が失敗で、その中から最適組み合わせを探すのである。文系の学問においても、受験という世界でも試行錯誤が有りうるのだろう。もしそうなら、小試験や模擬試験でたくさん失敗して、DATAを集めておけば、本番ではとても役に立つはずだ。

 受験では受かるか受からないかの2択しかないが、実際の人生・社会では想像できないほどの選択肢があるものだ。成否も、年代によって定義が異なるし、既存の常識の内側が有利なのか、それを否定した世界が良いのか、実にさまざまであるから、受験に向かって懸命に学ぶことと、そういう日常から一気に飛躍して精神を高みにおいて俯瞰することも大切だ。

 スポーツの試合の前に、指導者はよくこういう。「いいか勝つと思うなよ」。勝ちたければ勝つと思うな、こんな言語矛盾がまかり通るのだから、考えてみればおかしい。傘の柄を握る時、指が痛くなるほど力を入れる人はいない。柔らかく握って風が来た時だけきゅっと握るが、握力のコントロールはほとんど無意識だ。つまり、余裕と遊びがあればこそということである。長丁場の受験では、特に精神的な柔軟さが求められる。いつも目を吊り上げて緊張していては保たない。集中と解放のバランスをうまくやってほしいと思う。

 自分なり、自分にだけ合った方法をものにしたいところである。その意味で、この体験記は、著者がものにした、著者の独創による、著者ならではの個性が見られると思うが、その中から何を学ぶかは、それぞれの読者の個性や適性による。ついでに、諸先輩の合格体験記を片っ端から熟読して、自分に一番相性の良いものを見つけて、信奉すると、有益だろうと思う。

                        2019年 冬